序盤戦



数回の稽古が済んだ。


五ノ井は九月中旬に他の公演を控え、これからしばらくこちらの稽古は休みになる。
集団での稽古は機能的ではなく、全員揃っていても、状況によってろくに稽古が出来ない人が出てしまうこともあれば、一人欠けることで稽古の進捗に大きな影響が及ぶこともある。
全員が稽古をしたと充実感を得る回はそうそう無い。
プランをうまく立てられればよいけど、予想どおりいくことはまれで、最近はその日にプラン考えてもっていき、さらに現場で変更するような流れを取っている。一番新しい状況に応じたものが最適と思う。


何度かの稽古を終えて、皆の中に舞台俳優とシネマイムパフォーマーとの二つの回路を使うことへの戸惑いが見えてきた。

ひとつのシーンの中で、二つのスイッチの切り替え、ときには両方を同時に入れる、と目まぐるしく変えていかなければならない。舞台上に出て人の目に触れているのだけど、映画におけるカット割りのように、カメラを向けられた瞬間とそうでない瞬間を切り替えていく。新鮮な感覚だろうと思う。
この感覚に志村がいつもとは違う反応を示している。
いつもはじっくりタイプで稽古がはじまって二週間目くらいになぜか劇的な変化を遂げるというシステムをもつ彼が、今回にかぎっては稽古中にどんどん変わっていく。ダメ出しをするとすぐに「ああ!」と何かに気付き、失敗しても自らそのことに気付きまた「ああ!」と叫ぶ志村。テイクを重ねるにつれ変わっていく様は、どんどんリテイクさせたくなってしまう。そうすると稽古が長びくので我慢するけど。
そんな誰かの掴みが皆に作用して、また新しい掴みが生まれていけば。


一方、制作面では、フライヤーの準備が佳境を迎えている。
宣伝美術担当のshocoが頭の中でアイデアと戦いながら、ウンウン唸りながら、絵を描いている。
当初の発想が良く、スタートは順調に見えたけど、ここにきて暴れ出した。
しかし「いいの作ります!」と言い切っていたshocoは頼もしかったから、きっと大丈夫だろう。
先の志村もそうだけど、戦う姿勢が見られている時は進んでいるとき。
止まってしまわないように、ちょっとづつカベを用意したい。
そして〆切というのは等しく残酷だ。がんばって欲しい。



八月が終わり九月が始まる。
残りの稽古時間は200時間を既に切っている。

冷静に



台本の初稿が上がり、物語の大枠がはっきりしてきた。
同時にライブの全体像も見えてくる。


ライブは前半、後半の二部構成でいく。
せっかくの飲食ができる会場だ、ドリンクだけでなくフードも楽しんでもらって、よりリラックスしてもらいたい。それが、作品を楽しみやすくなるコツだと思う。


第1部は、シネマイム・パラダイス。
既存ネタはもちろん、新作も持っていきたい。
ライブハウスという環境をフルに使い、音響、照明の効果を合わせ、普段のイベント会場やストリートでは見られない構成のシネマイムを披露したい。
第2部は、物語のあるシネマイム。
ここに、先日まで書いていた台本が使われる。
ノスタルジーというキーワードに、今度は役者たちに向き合ってもらおう。
そしてなにより、マイムを使いつつ演技をするという、 難解な作品に挑んでいかなくてはならない。
怖くもあるが楽しみのほうが強い。稽古が始まったせいで少し気が上がっているのが分かる。こういうときになにか出鼻をくじかれると一気に停滞しかねない。冷静に。


しかし台本が上がっただけでは、まだ一息つけない。
稽古を進めながら、新作シネマイムを3つと、物語の中で使われるシネマイムを4つ作る。
10月になれば宣伝活動も本格化するだろうし、じっくり稽古や作品づくりできるのは実は9月なのかもしれない。スロースターターではいけない。一気に全力疾走までもっていく。ただ、季節の変わり目で、自分もだけど、メンバーの体調も気になる。
このところ涼しい日が続いていて、夏が終わりつつあるのが分かる。
往く夏を惜しむ気持ちは毎年抱くけど、ノスタルジーに囚われていた今年は、何か違う感じだ
まだ、熱気をもって作らなくては。

そして悲しくうたふもの


稽古開始まで1週間を切り、構成台本の執筆もまさに佳境だ。
台本を書き進め、消して戻り、また書き進める。

書き直した結果良くなればいいが、かえって悪くなったりもしばしば。しかし、一度消した文章を復活させる気にもならず、次の閃きがくるまで机の前に居座り続ける。

立川の劇団、「神馬」の作家である上野さんが「台本の後半は詰将棋みてえなもんだからよ」と、でかい声で苦悶を浮かべながら言っていたのを思い出す。
まさにそのとおりだ。
しかし上野さんは将棋が得意だったはずだ。自分は3歳差の兄に全くてかげんしてもらえず負け癖がついた幼稚園の頃に将棋は引退した。 


そんな中、お盆ということもあり、数日間の帰省があった。

故郷の味を堪能しいい息抜きになった。件の兄が新車を買っていた。自分が東京に戻る際に送るそのときまで、車の話題など一切出してこず、いつもの車だろうと駐車場に降りて行ったときに淡い緑で覆われたミニが眼前に現れたとき、驚きと、そして、むずむずとした嬉しさが込み上げてきた。
人が自身のためにお金を使っているのは見てて楽しいものだ。下卑た考えかもしれないけど。

自分は最近自転車を買い替えた。昔なら車との金額差に悔しくも思っただろうが、それぞれの趣味の世界のことだ、もう比較する気も起きない。


東京に戻り、執筆が再開される。
家では、主に二匹の猫によるものだが、誘惑が多く進捗が芳しくないため、昼間は稽古場、夜はネットカフェやカプセルホテルにと、こもってみた。この環境は良かったらしく、かなり原稿を進めてくれた。
「Nuovo Cinemime Paradiso」の物語も佳境に差し掛かってきている。「ニュー・シネマ・パラダイス」に重く塗られているノスタルジーや郷里というテーマを考えることが増える。そう考えると帰省したのはタイミングがよかった。こういう、なにかに取り組んでいる折にそれに関わる出来事が合わさってくると、大げさだけど運命めいたものを感じて、少なくても間違った方向ではないと言ってもらえているようで、少し、ほっとする。

単独ライブ、「Nuovo Cinemime Paradiso」は9割がたシネマイムだ。けど、残り1割のストーリー部分のために、この「ふるさと」というテーマに向き合わなければならない。

東京で、田舎には無いネットカフェで、カプセルホテルで、山下公園で、日本丸で、稽古場で、ふるさとのこと、昔のことに考えを巡らせる。
ふと「ふるさとは 遠きにありて~」という詩が頭をよぎる。
有名な詩なのに作者名もちゃんと覚えていなかった。でも、これはなにかの閃きにつながるかもしれない。そう期待し、調べる。作者、そして詩の解釈、背景・・・

ドキリとした。

ノスタルジーではないものがそこにあった。
「ニュー・シネマ・パラダイス」にも見えるようなそんなものが。

少しいろいろなことが繋がったかもしれない。
これをなんとか台本に反映させられれば。

稽古開始まであと六日だ。




うずくまる



小田原まちなか軽トラ夕市が終了。

機材トラブルでオープニングにと用意していった「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序~ヤシマ作戦~」を「E.T.」に変更。
小田原にゆかりのあるヱヴァを上演できなかったのは心残りだ。
路上に出る以上、トラブルへの対応力が求められる。
作り込むことを前提とする劇場でやってきた感覚を持ち込んでしまったのだろう。
場所に合わせて意識がスイッチするようになったらと、なんか新しい夢ができた。

デビュー戦となった小林は客寄せから本番まで緊張もなく力を発揮してくれた。
「タイタニック」でお客さんから大きな反応があがったことはきっと貴重な記憶となると思う。
自分がシネマイムをやっていられるのはデザフェスでの反応があったからだから。

夏の路上パフォーマンスは本当に厳しい。
夕方とはいえ、籠るような暑さに、1ステージだけでも立つ気力が失われる。今日から甲子園が始まるけど、彼らのすごさと、あと危なさが今なら実感をもって分かる。 


小田原が終わり、構成台本づくりも本格化。
稽古場に一人で入り、パソコンと向かい合う。
「Nuovo Cinemime Paradiso」というひとつのテーマに添いながらも、いろいろなエッセンスを盛り込みたいという欲が出てきている。参考にしようといろんな人の作ったものに触れた結果だ。こうなると自分に無いものを作ろうとして失敗する。そろそろ自分の持っているものとだけ向き合う時期かもしれない。
「シネマイム」とだけ過ごさなくてはならない。その可能性を広げて考えること。地続きに。